離婚直後は「何がいけなかったんだろう」と
そのことばかりを考えていました。
色々考えた結果、一つだけは分かりました。
母親が夭折して祖父母の介護をせざるを得ない環境でした。
(今はヤングケアラーと言われてます。)
自分のことだけを考えられない環境で育ち、
そのことは仕事面だけでなく恋愛にも影響を与えました。
恋愛だけを楽しんでいる時はいいのですが、
その先の結婚まで考えると自分の家庭環境が引っかかるのです。
自分を取り巻く環境があまりにも荷が重く辛いのですが、
それを見て見ぬ振りも出来ず、嫌だとも言えませんでした。
この時期から私の人間不信のような感情が沸きあがるのを
自覚するようになりました。
この頃の私は近所の方々がとてもストレスでした。
近所の方々は母がいない機能不全家族になった我が家を
ドラマを見るような眼差しで感情移入し注視していました。
我が家の様子を高みの見物のように傍観し、
他人の不幸をどこか楽しんでいるようなそんな印象さえ受けました。
仕事帰りに父親が共益費を集金している姿を見かけたら
「長女でしょ!家のことをどうしてやらないの!」
テスト期間中で勉強している私にご自身の感情をぶつけてきます。
3歳下の妹もいますが、近所の方々から私だけ監視されてました。
近年、ネットの中傷による悲しいニュースが後を絶ちません。
私は悲しい事件を起こした方々の気持ちがよく分かります。
悪く思っている方々ばかりではない。
自分に好意的な人も沢山いる。
その通りだと思います。
でも、自分に向けられる負の感情の破壊力は
原子爆弾のように瞬時に私の心を破滅させます。
近所の人たちから浴びせられた興味本位の視線、
忠告という名の自分本位な価値観の押し付けを
今でも私は忘れられません。
ネットでの不特定多数の人たちからの有象無象の悪意は
どれほどの破壊力か計り知れないところです。
いじめに負けない心を持つ、
ネットでの暴言罵声に心を乱されないよう!
↑無責任で思慮に欠けた意見だと思ってます。
まずは加害者に対する倫理責任を問うべき問題です。
心の中で何を思うかは思想の自由ですが、
その思想を表現して人を傷つける凶器にしてはいけない
という認識が欠けている。
すべてを受け入れろという事ではなく、
自分と違う存在、意見、価値観があっても当然だという認識、
それはこの社会の中で共存すべき概念だという意識が
とても欠如していると感じます。
幼い頃の私のように傷つき人を心から信じられない人が
この世の中には沢山いるはず。
その気持ちを自分で自覚し表現することを恐れないことが
自分の抱えている人間不信を克服する第一歩のための一歩だと
私は思ってます。
コメント